40歳以上限定!ストレスを理解して上手に付き合っていく方法

「人生五十年」戦国の世、天下統一を成し遂げた織田信長は、その最期を迎えた本能寺での舞で、こう唄ったと言われています。しかし、今や五十代、六十代は働き盛り、それどころか、七十代、八十代で未だに現役、そんな人々も数え切れないほどいらっしゃいます。

それを思えば、人生区切りの五十歳、箱根駅伝に喩えれば、往路が終了して復路がスタートしたばかりの時期だと言えるでしょう。つまり、あと半分も残っているのです。

これから訪れる人生の後半戦、それは蓄積された人生経験が、広い視野で世の中を見渡す事を可能にしてくれます。
失敗の経験、挫折の時期、これらも総てが財産となっている現在、それをフルに生かして、今までよりも効果的に活動できるのは、まさに折り返し地点を通過してから。生活の密度と言うことを考えれば、駅伝同様、大いに盛り上がって面白いのはこれから、という感じですね。

そんな人生の後半戦を快適に過ごすためにも、自分を取り巻くストレスと上手く付き合っていくことが非常に重要なポイントになってきます。

とは言え、一概にストレスと言っても、その深刻さは人それぞれです。まず、一人一人の生活環境が違います。それに加えて感受性の違い、同じ刺激に対しての反応は千差万別なはず。これらの違いによって、ストレスが個人に与える障害には数え切れないパターンがあることは容易に想像がつくでしょう。

・それら全てに共通しているものは何だろう?
・ 少しでもストレスを軽減して快適な生活に近づける術はないものか?

このような発想でこの文章は書かれています。ほんの僅かな発想の転換、或いは、ストレスの本質を知ることで対処法が見つかる、そんな場合がきっとあるはずです。
ストレスの実態を把握してこれを軽減する手段を模索する。では、そのために何から始めれば良いのでしょうか?

そうですね、まずはストレスの本質に少しでも近づくことにチャレンジしてみましょう。ストレスをさまざまな観点から見つめ直してみることで、今まで意識しなかった部分に光を当てることになる、そこを目指して。

ストレスの本質について

結局のところ、ストレスは人間が「刺激」を「感じ取る」ところから生じる。こう考えて良いのではないでしょうか。騒音、悪臭などの単純なものから始まって、職場、近隣の人間関係など、ストレスの要因は外からやって来るものがその殆どを占めます。

その一方で、疾病、性格上の悩みなど自らの内側にあるものがストレスの原因になる場合もあります。しかし、これらも自分がそれを負荷として感じるからストレスの原因となります。

こう考えていくと、暮らしていく上で避けられない事というのは数え切れないほどありますが、言うまでも無くストレスもその一つということになります。残念なことに、普通の社会生活を送る上で、全くストレスの無い生活というのは考えられません。つまり、ありとあらゆるストレスを完全に除去するというのは不可能なのです。

また、これを逆の方向から見てみると、ストレスの無い生活というのは、刺激の無い生活であるとも言えます。著名な法律家の言葉に「適度なストレスは、個人の緊張感を持続する糧になる」というのがあります。一般には厄介者と考えられているストレスが、その人の活動の原動力になっている場合もある訳です。

問題は、その刺激、或いは緊張感が強すぎて障害になる時。だからこそ上手な処理の仕方が求められるわけですが、そのためには、
「何故、ストレスを感じるのか」
これを分析してみる事が有効です。

人がストレスを感じる時、その原因として考えられるものは実に多方面に亘って存在しますが、大きくは、
「社会的、構造的な要因」
「個人的資質に関連する要因」

この二つに分ける事が出来るでしょう。

そして何より重要なのは、それを感じる主体である‘自分自身‘の分析。これが本題の中心的な課題になります。外部からやって来る刺激の分析だけで終わっていては、対策の立てようが無いのです。そのためには自らの歩んできた道を振り返ることも必要になります。
これを後ろ向きな姿勢と捉える人も居るでしょうが、それは違います。今の自分を形成してきた過去を客観的に見つめ直すのは、過去の思い出に浸ることとは根本的に異なるのです。

簡単に言えば、「ストレスとは、人が生きる上で蓄積してきたものが、一定の刺激に反応して起きるもの」と捉えて差し支えないでしょう。だからこそ、
ストレス(刺激)の成り立ち
・自分を形成したさまざまな要素

この二つを詳細に分析する事が、ストレスを軽減するための第一歩となる訳です。

ストレスを把握するために

ところで世の中には、閾値(いきち、しきい値)という言葉があります。一定の値で動作や意味などが変わるその値を指し、実にさまざまな分野で使われている言葉です。
例えば、今や社会生活に欠かせないパソコンに関してだと、プログラムを制御するための条件の範囲。また、これもやはりパソコンと関係ありますが、画像処理の分野で色濃度の基準として。

あと、電子回路ではON、OFF を決める境界電圧、その他、毒物や放射線の分野でも一定の結果を招くその量的範囲を閾値という言葉で表します。

この閾値というのは心理学、生理学の分野でも使われています。これらは人の機能に直接、関連する分野なので、その定義を詳しく見てみると、

心理学⇒「刺激の存在、或いは刺激の量的差異を感じ取るのに必要とされる最小限の刺激値」
生理学⇒「神経細胞が平常状態から活動状態へ転換するのに必要な最小限の電気的信号の強さを示す値」
ということになります。

ストレスを感じる、感じない、の境界線を考えてみる時に、この閾値という概念は非常に役立ちます。刺激の強さ、または自分の中で蓄積されたものが一定の値を超えるとストレスとして生活の障害になる、このような図式が成り立ちます。
要するに、完全に除去するのが困難なストレスを、一定の基準を超えないように制御する」こんなアプローチの方法が、最も現実的なのです。

ストレスとの共存ということが言われます。そして現実に人は皆、そうやって生きています。しかし、どうにも共存できないストレスは存在します。それを実際にはどうしているかというと、多くの場合は無視する、或いは、逃げるという方向に向かうのではないでしょうか。これでは抱えているストレスの要素は残ったままですね。

また、どうすればストレスを無視したり逃げたりする手段をあれこれ考えていく際に、その代替物を探すという場合が出てくるでしょう。ストレスを忘れさせてくれる何か、これを模索するためには、そのための生活の幅や興味の対象は広いのがいいのか、一点集中で狭い範囲に絞り込んだ方がいいのか。

そもそもの基本姿勢に若干の問題があっても、このような選択で悩むのは非常に意味のあることです。しかし、深刻な事態を引き起こす可能性があるのは、切実に何かから逃れようとすれば、それを上回るインパクトのあるものでないと役に立たないという状態に陥る場合です。

代替物を探す方向を間違えてしまうと本当に大変なことになります。ストレスの刺激を上回る刺激、このような思考に走った時、行き着く先は何処でしょう。ドラッグ、薬物、賭け事、破壊行動、一瞬のインパクトを求めれば、それを得る手段はいくらでも出てきます。

世の中には手軽に手に入るさまざまな刺激で溢れているのが現実なのです。そして、それらの多くは、社会的に逸脱した世界への入り口になっています。これでは、ストレスを発端とする人生の崩壊に至ってしまう可能性が非常に大きくなります。

ストレスを制御するための基本姿勢は二つです。
☆ ストレスを無視しようとするのではなく、正面から向き合って分析する。
☆ ストレスから逃げるのではなく、逃がす。


これを念頭に置いてストレスの原因に対処していきましょう。その際、一瞬のインパクトよりも、これから積み上げていくモノの方が強固に自分を支えてくれる、このことを忘れてはいけません。
そして、ストレス解消のために何を積み上げていくかは、過去の自分にどのような蓄積があるのかを十分把握してから決定することになる訳です。

ストレスを感じる、感じない、というのは花粉症に似ています。春になると鼻や目がむず痒く、クシュン、クシュンとなってしまう厄介な花粉症。あれは全く突然やってきます。

「去年までは何とも無かったのに・・・」花粉症を発症した人のこんな感想があちらこちらで聞こえますが、これはまさに、若い頃は何でもなかった事が、年齢を経るとともに重圧として感じられてしまうストレスの感じ方と同じですよね。

また、人の反応がどのように起きているのかを考えてみると、さまざまなストレスに対する個人個人の反応は、昨今、話題になっているアナフィラキシーショックと合い通じる部分があります。アナフィラキシーショックは、一定の食品に対する反応、及び蜂に刺された時などに問題になります。

よく言われるのは、「蜂は、二度目が恐ろしい」都会に住んで居ると聞きなれない言葉ですが、農山村地方では半ば常識として通用している生活訓です。このメカニズムとは、一度目に刺された時に体内で出来上がった蜂の毒に対する免疫が、二度目に刺された時に過剰反応して深刻なショック状態を引き起こすというものです。

身体を防御するための免疫抗体が、逆に身体に害を与える、皮肉な結果ですが、これは人の身体に働くメカニズムとして避けられないものです。ストレスもこれと同様、過去の経験が現在の反応を決定付けます。

外部からの刺激をストレスとして感じるのは、自分が経てきた時間の中で、意識の中にストレス因子が組み込まれると考えて良いでしょう。ストレス障害として深刻な事態を引き起こすのは、誰が見ても負荷になるだろう、というようなものよりも、その人にしか分からない固有の領域で形成されたものの方が多いのが、このことを裏付けています。

つまり、ストレスの実態を知り、それに対処する方法を考えるためには、自分なりのストレスの基準値を探し当てる、また、その基準値はどのように形成されているのか、このように思考を巡らせていくことが重要なんですね。


ストレス体質からの抜け出すには?

ここからは普段の生活の中で実行できる事柄を交えて、ストレスとそれを感じる自分の毎日を考えていきましょう。
ストレスを軽減するために、自らの内部に蓄積されているものを知る。それはつまり、今の自分に影響を与えているものを拾い上げていくことになります。

個人の中に形成されていく閾値というのは、直接、ストレス形成に影響するものに限らず、さまざまな分野に存在します。例えば『理想』について。自分の生活を振り返った時、昔、思い描いていた理想の境地というのが大きく変わってしまっているのは誰でも感じているはずです。
人生を経てきた現実の経験がそうさせるのは明白ですが、何かの拍子にそれを感じた時などは、さすがに落ち込みますね。これなど時間の経過に伴って、閾値が変化していく良い例です。

ここでは最初に、『感動』の閾値というのを取り上げます。
「そんなこと、考えても意味は無い。ストレス形成とは何の関係もありはしないだろう」と思われるでしょう。ところが実は大いに関連します。

身近なところでは、テレビ番組がちっとも面白くない、というような感想を持った経験はありませんか? 特に、壮大なスケールで描かれた人間ドラマなんてものは、
「自分とは関係ない世界だな」「やたら大仰に表現していてうっとうしい」
世の中、そんなドラマチックなものじゃない」こんな感想を抱いたことがないか振り返ってみてください。もしそんな経験があれば、原因は感動の閾値が下がってきている、或いは狭くなっているからです

感動を得るために何かをするのは疲れる、疲れることはしたくない、言ってみればこんな状態です。このような状況、何となくマズイな、と感じるでしょう。では、何故、マズイのでしょうか?

それは、脳の活性化と関係するからです。脳が活性化しているかどうかは、興味の対象が広がりをもっているか、入ってくる刺激に対して敏感に反応できるか、などの局面に分けて考える事が出来ます。
そして、活性化していない脳は、ストレス体質を作り上げてしまうことになるのです。
ストレス体質とは、ストレスを溜めやすい、またはストレスを感じやすい体質を意味します。

テレビの視聴に関して言えば、このように考えることも出来ます。「感動にも種類があって、ある種の感動は現実とのギャップを感じさせることでストレスの一因になる」

カタルシスをともなう爽快な感動は、日々の暮らしの中で精神生活を豊かにしてくれることは間違いありません。しかし、人の身体は本能的に疲れることを嫌います。身体が無理を拒むので、負荷のかかる行動を回避しているために感動の閾値は下がっていきます。

そうなるとテレビを見ている時も、肩肘張らずに見ることの出来るものを好んで視聴する傾向が出てくるんですね。バラエティやホームドラマが高い視聴率を得ている背景には、テレビを見る側にこのような事情が存在すると考えてよいと思います。
代表的なのが「サザエさん」でしょうか。これは何と日曜夕方の時間枠を40年近く守り続けています。周囲の環境が殺伐としているからこそ、ほのぼのとした世界に触れるとホッとするのでしょう。

このように長く続くのが、テレビ番組として秀逸なものを有するからだというのは十分理解できますが、それにしてもこれだけ長く支持される理由として、毎日の生活がいかにストレスに晒されているかを物語っているような気がします。

理想を言えば、何気ない日常の描写が続く中で(それ自体が面白く見られて)、知らず知らずダイナミックなストーリー展開が始まり、見る側がそれに引き込まれていく、そんなドラマがあれば一番良いでしょうけど、なかなかそんなドラマにはお目にかかれません。

無いものねだりをしても仕方のないことですし、手軽なテレビで手に入らないのなら他の手段で手に入れれば良いのですが、そのためには結構な労力を必要とします。

例えばエンターテイメント関係なら、映画館、コンサートへ足を運ぶ。教養関係なら読書、趣味の世界を広げる、など手段はいろいろあります。しかし、感動の閾値が低くなっている状態でそれらの努力をしても、思ったほど効果は上がらないかもしれません。
何より、脳が不活性化した状態では、そんな行動を起すだけの情熱が湧いては来ないでしょう。先ずは、自分の脳そのものを活性化することから始める必要があります。

そこで「継続できるか否か」という観点から、手軽でありながら効果が期待できる方法、これを探してみましょう。最初は、ほんの些細なことから始まります。

脳を活性化させる方法

その1、(細切れストーリーを繋げてみる)

テレビの話が続いたので、という訳ではありませんが、ここでの最初もテレビを使った方法です。手軽さという点では、やはりテレビが一番。生活に密着したメディアとして抵抗無く入っていけるのではないでしょうか。

やり方は簡単、サスペンスドラマを途中から見るだけです。その場の雰囲気が分かる程度にワンシーンを見て、その場面に至る過程を想像します。
たったこれだけで、受身の状態からの脱却が図れるそうです。
出来たら頻繁にテレビを消して(チャンネルを変えるのでも良いでしょう)ストーリー展開を推理する機会を増やしてください。

これではテレビを見た気がしない?
まあ、そうかもしれませんけどね。

それはともかく、何故、テレビを見るのに受身ではいけないのでしょうか? 話が少し横道に逸れますが、テレビを見ているときの状態を考えてみましょう。
テレビの視聴は、視覚と聴覚を使用して情報を受け入れます。その時、脳の状態は発信される情報を処理するだけで精一杯になっています。この状態が続けば、脳の一部だけが長時間使用されることになって、脳全体の活性化からは程遠い状態になる、というメカニズムが働きます。

テレビというものが一般家庭に普及した時代、「一億、総薄痴化」というようなことが盛んに言われました。脳科学が今ほど取りざたされていない時代にも、脳の働きについては真理を突いていたと言うべきかもしれませんね。脳科学に基づいた説明は、もうちょっとレベルを上げた段階で再び出てきます。取りあえず、話を元に戻しましょう。

その2、(まあ、いいか。と思わない)

年齢を重ねると、どうしても物忘れが多くなります。「まあ、仕方がないよな」こんな風に諦めてしまう場合もしばしばです。思い出せないことに拘っているのは精神衛生上も良くない。こう考えても無理はありません。

しかし、脳の働きを考える上では決して褒められた態度では無いようです。もう喉元まで出掛かっているのに、思い出せない、言葉が出てこない。こんな時は、無理をして思い出す努力をするべきです。

記憶は、短期記憶、中期記憶、長期記憶に分けてそれぞれの特徴を考えるということが一般的に行われていますが、ここでは厳密に分類する必要はありません。単純に「アレ、なんだっけ?」という状態を想定してください。人の名前、地名など思い出せたところで何の意味もないものでも、可能な限り記憶を辿ります。
また、頭文字で芋蔓式に出てくる場合もあるので、極端な場合は「あいうえお」から順になぞっていくくらいにジタバタしてみましょう。実は、認知症の予防としてもこのような努力が功を奏することが、医学的にも証明されています
「未だ、そんな歳ではないぞ」などと言わずに実行することをお勧めします。

ここで覚えておいて欲しいのは、たとえ、結果として思い出せなくても、脳の活性化には役立っているということです。思い出そうとしてあがいた挙句にモヤモヤした気持ちだけが残る、これは歓迎できない状態でしょう。でも、その分、脳は活性化しているんですね。決して無駄にはならないのです。
ただ、どうせなら実際に思い出せた方が良いのは言うまでもありません。「あ! そうだった!」と記憶を手繰り寄せた時の達成感は、効果を倍増させますから、是非、思い出すまで粘り強く頑張ってください


その3、(異質な刺激に触れる)

ここからは、少々、ステージが上がります。すなわち、ある程度の気構えが必要となる段階に進むということになりますが、意識の中に次のようなことを埋め込んでおいてください。それは、「自分自身の感じ方は、段階を追うごとに変化する」ということです。

考えてもみてください。今、行っているのは脳を対象とする活性化の訓練で、それは当然のように貴方の感受性にも影響を与えます。これを読んでいる段階で、「こんなことが自分に実行できるとは思えない」と感じる心そのものを変化させるのです。無理にでも、今の判断、感じ方は全く当てにならないと思い込むようにしましょう。

「異質な刺激」とはどのようなものを指すのか、これを考える前に、この文章の少し前の部分に遡ってみたいと思います。その際にキーワードとなるのは、「バランス」です。

人がストレスを感じる時、その原因を考えた時、大きく分けて「社会的、構造的な要因」「個人的資質に関連する要因」の二つを挙げましたね。この中で最初に取り上げた社会的、構造的な要因というのを検討してみると、ある事が判ります。
それは、個人の存在は、社会によって作り上げられている。ということです。これではあまりにも当たり前のことを言っていることになるので、詳しく説明しましょう。

ここで言う「社会によって作り上げられている」というのは、ものの考え方や感じ方を含めて、社会が個人に大きな影響を与えている、もっと言えば「規定・規制している」ということです。

表現の仕方を変えると、我々は自分の意思に関わらず、否応なしに一定の行動、考え方をさせられている、とまで言えるのではないでしょうか。こう断言しても、
「ここまで自由が保障されている社会の中で、そんなことが有り得るはずも無い!」
そんな反論をする人は意外と少ないと思います。極めて個人的な見解かもしれませんが、今の世の中を漠然とこう捉えている人は多いように思います。但し、あくまでそれは漠然とした感覚であって、具体的にどの部分がそうなのかは曖昧なままです。

しかし、皆が本能的には感じ取っているんですね。もしも、その中にストレスの要因となるものが潜んでいる場合は、決して無視できません。
そこで、今の世の中を見渡して、ストレス因子を抽出するという大胆な試みをしてみる必要が出てきます。

現在の社会を表現するのに欠かすことの出来ない言葉の一つに、「情報化社会」というのがあります。今が情報化時代だと言うことに異論を唱える人は居ないでしょう。これがストレス形成にどのような影響を与えているかを分析するためには、二つの視点が必要になります。それは、
・情報そのものの内容と量
・情報を得る手段

の二つです。

先ず、一つ目の「情報そのものの内容と量」について。現在、社会に流通している情報の内容を吟味していくと、個人が生きていくために必要なものを択び分けるには非常な困難を伴う状況だと言えるでしょう。

分野別に見渡しても、決してバランスのよい状態であるとは言い難いと思います。
にもかかわらず、このことがあまり取りざたされないのは、発信されて出回る情報の量があまりにも膨大なためです。

人類は、かつて経験の無いほどの短期間で大量の情報が流通する世界を作り上げました。というよりも、我々の立場からすれば、そんな世界の中に投げ込まれたと言った方が正しいでしょう。正直言って、世の中の大半は時代の流れについていけないでいる、というのが実状だと思われます。

従来の社会に見られた情報の偏在が解消されるに伴い、我々は処理しきれない情報の渦に巻き込まれています。このような状況下で精神面のバランスを取ることは、所詮、不可能なのではないでしょうか。

例えば、非常に素朴な疑問として、情報の価値というのを考えてみましょう。一体、情報の価値は上がっているのでしょうか、それとも下がっているのでしょうか?

「入手しやすくなれば、情報の価値は下がる」こんな前提のもとに考えてみると、情報化社会と言いながら、一つ一つの情報の価値は下がっているとも考えられます。
逆に、大量の情報が溢れかえって情報の真偽が確かめ難い事実に目を向ければ、精度の高い情報に関しては従来よりも価値が認められるということになりそうです。

どうやって情報の価値を決めればいいか、基準は何か、そんな単純なことにも明確な答えは見つかりません。信じて良い基準、或いは価値序列が存在しない世界で我々は生活しているという訳です。

極めてまともな神経の持ち主なら、こんな周囲の状況に不安を覚えて当然だと思います。これを端的に、情報社会がストレス社会を生み出すと言っても過言ではありません。自分では普通だと思って生活していても、脳は一定の傾向を持った情報を受け入れるために否応なしにバランスを崩しています。

ここで「普通に」、と言うのは、必要に応じて情報を摂取する、そんな貴方の日常生活を指します。自分なりに情報を取捨選択したつもりでも、個々の情報には発信者の意図が含まれていて、残念ながら現段階ではその背景を知った上で利用できるようにはなっていないのです。
その結果、知らず知らずのうちに、自分が接する情報の中に一定の傾向が出来上がってしまいます。


脳の活性化には語学学習がおすすめ

非常に前置きが長くなりましたね。「何の話だったっけ?」そんな声が聞こえてきそうなので、具体的な脳を活性化する方法に話を戻しましょう。
要するに、崩れた脳のバランスを取り戻すためには何が有効か、というのがテーマなのですが、その答えが「異質な刺激に触れる」ということなのです。

最も身近なところでは「語学」を挙げる事が出来るでしょう。苦手な人には少しばかり敷居が高いかもしれませんが、語学を勉強することは想像以上に脳の活性化に効果があるのです。

昔のことですが、数ヶ国語を操る人に聞いたことがあります。
「それぞれの言葉を喋るには、特別な頭の切り替えがいるの?」
幼稚な質問をしたものですね。でもその人は真面目に答えてくれました。その答えはこうです。
「そうやって、別のスイッチを入れようとするとスムーズに言葉が出てきませんよ」

なるほどねえ! と、本当に感心しました。意識すればそれが障害になるのです。
考えてみれば言葉は自然と口をついて出てくるのですから、頭の中をシステマチックに考える必要はない訳ですね。普通なら「慣れが肝心」ってことで、これを語学の本質と捉えるべきでしょうけど、それ以上に、これはストレス軽減の本質に関わる事柄を含んでいます。

つまり、ストレスは、ある事柄を意識することによって生じます。どうしても意識してしまう刺激に対して、それを意識しない状態を作り上げるのは至難の業でしょう。
しかし、語学のトレーニングは、脳の活性化を促進する異質な刺激になるのと同時に、意識しないという訓練を同時に行うことになるのです。これは一挙両得と言える方法ではないでしょうか。

語学と言うのは言葉が対象なので、一種の反射運動として捉える事ができます。深刻なストレス障害に対する専門医の治療にも、この反射運動を利用したものが取り入れられているという事実があります。
難しい単語、文法を操るレベルを目指す必要はありません。実際に最も効果があるのは、初対面の時、或いは朝、晩の定型的な挨拶、これらを数ヶ国語に亘って覚えるというのが良さそうです。

これ以外にも語学にはメリットがあります。それは、発声するということ。声を出すことは脳の活性化に大きな効果をもたらします。

このことからも、正確な文法に拘ったり、難しい単語にチャレンジするよりも、単純な会話を中心に取り組むのが得策であると言えるでしょう。

とは言え、学生時代から語学に拒否反応があるなど、やはりハードルが高いという人も居るでしょう。そんな場合は、何が何でも語学、という訳ではありません。数学、歴史、環境問題に興味があれば高校時代の生物、化学の知識を再確認するというのもいいでしょう。

要するに日々の暮らしと関係ないことを行うことに意味があります。そのことによって脳の活性化を図り、それが無意識のうちに崩れた脳のバランスを取り戻すことにつながります。


情報を脳に伝える道筋

次に「情報を得る手段」に着目してみましょう。これも脳が受け入れる情報の中身と同様、知らず知らずのうちに個人を規定していると言えます。

我々は、どのようにして情報を得ているかを考えてみると、非常に限られたツールに頼っていることに気づかされるでしょう。パソコン、携帯は今やビジネスツールとして必要不可欠なものですし、それ以外の生活でも情報を得る手段は、日々、進化しています。

確かにその時代の最先端ツールを皆が使えるようになるのは喜ばしいことですが、脳の活性化を図るためには「便利になったもんだ」と、喜んでばかりはいられない状況があるのです。
それは、情報を受け取る際に使用するツールが固定化すると、脳の一部しか使わないという事態が生じるからです。

これに関連した脳のメカニズムを分かりやすくするために、またまたテレビに登場願うことにします。必ずしも最新の情報伝達ツールとは言えないテレビですが、これと読書による情報の受容と比較してみましょう。

情報の伝達は言葉の理解という行程を経る必用があります。読書で文字情報が伝達される場合、読んだ文字は視覚を通して、左側頭葉の言語中枢(ウェルニッケ野)に入ります。それが認識されると、次に39野と40野で認識した文字を音に変換します。
これにより、その音をもつ単語をイメージして理解するのです。そして理解された言葉は、左前頭葉の言語中枢(ブローカ野)に到達して言葉として発することの出来る段階に至ります。

ウェルニッケ野とブローカ野

読字障害という症状がありますが、これは脳の働きの中で39野と40野が上手く機能しないために起こるそうです。このような段階を経て文字と単語の認識が脳の中で行われるのですが、テレビのように音声と映像の力を借りて内容を理解できる場合は、読書と比較して大幅に脳の働きは軽減されます。

読書よりラジオ、ラジオよりテレビというように、情報伝達ツールが進化すればするほど、脳の働きが鈍化していく可能性は否定できません。

このような脳の働きに着目した時、情報を受容する時だけに限らず、文字や単語をどのように記すかという場面でも同様の問題が生じる事が指摘されています。
すなわち、文字を連ねて単語を書く時と、キーボードを叩いて単語を綴る場合とでは、脳の使われる部分が異なるという研究結果が出ているそうです。
より高い利便性を求めた結果、脳自体の働きが鈍化していく、これも皮肉な話ですね。

但し、このことに関する対策はハッキリしていると思います。
単純に、文字を読む機会を増やす、文字を書く機会を増やす、ということで、失われつつある脳の働きは取り戻せるでしょう。そして、何の抵抗も無く容易にこれを実行できるのは、我々の年代の特権であるとも言えます。昔は当たり前のようにやっていたことを実行するだけなのですから。


トータル思考

脳の活性化に関して個別の対処法ではありませんが、我々の年代だから出来る発想について記しておきたいと思います。それは全体をトータルに見渡す、ということです。
これは若い人たちには無い視野と経験がなせる技で、これも世代の特権の一つに数える事が出来るでしょう。

中でも全体を俯瞰しなければならない職種、管理職、デザイン関係、生産ラインの統括部門などの仕事に携わった人は、脳を活性化する機会に恵まれていたと言えます。
何故なら、アウトラインを把握しなければ成り立たない、このような要請が働く時に脳は非常に活発に働くからです。大分、局面は異なりますが、連続ドラマを面白く感じる場合なども、そんな頭の働きが作用しているのかもしれません。退屈な描写が続いていたドラマも、全体の展開が頭に入ってから、俄然、興味が湧いてきます。

どうもテレビばかり例に挙げていますので、ストレートにストレスと対峙する場合を考えてみましょう。物事をトータルに把握することに慣れた人にとっては、ストレスに対応するのにも、そのまま実社会の経験が生きてきます。
「仕事ならまだしも、プライベート、ましてやストレスの対処となると、どうかな」
と、疑問符をつける人もいるでしょうね。しかし、それは身についている思考回路をあえて使わないだけだと思われます。

また、目の前にあるストレスを苦痛と感じてもがいている最中は、自分の持っているものを忘れがちであるということも覚えておきましょう。
一歩、引いて自分を眺めてみることで、これまでの経験が生かせることに気づく場合がしばしばあるはずです。何かの拍子にそのことに気づく、幸運にもそんな機会が訪れれば良いのですが、見過ごしたまま何年も経過する、というのは勿体無い限りです。
その意味でも無駄だと思わずに今まで経てきた経験を中心に自分の過去を振り返ってみることが有益なのではないでしょうか。

トータル思考と言うのは、現在進行中の自分の生活自体を見直すことも含みます。その際、意外と盲点になるのは「食事」です。
精神を安定させるのに役立つ栄養素、など食の情報は、従来よりも簡単に手に入るようになりました。これは目に見えて効果が現われるものではないので、どうしても重い腰を上げる、ということにはなり難い分野です。

しかし、生存の基本であり、しかも毎日の刺激という観点から考えた場合、ないがしろには出来ない要素であることは間違いありません。脳に良い食事というのも当然、存在します。

但し、ここで最初に取り上げたいのは、摂取する食物の栄養素ではなく、食感です。
歯を磨く際に、歯茎まで磨くと脳の活性化に役立つことは良く知られています。また、硬いものを良く噛むことも頭の働きを良くします。

体全体をコントロールする脳の働きを考える上で、その頻度を考えても口の中の感覚と言うのは脳の健全な育成に大いに関係しているでしょう。
その意味で、歯触り、舌触りは脳の活性化と密接なつながりを持つと考えられるのです。具体的には、違う食感のものを摂取すると、多様な刺激を脳に与えることになって効果が期待できます。
これは同時に、栄養価の面でも結果的にバランスの取れた食事となるのだそうです。

そう言えば、全く違う食感で栄養素が一緒というのはあまり無いですね
これ以外に、特筆すべき食品としてヨーグルトを挙げる事が出来ます。その理由は、腸の働きが脳の活性化と関係しているからです。腸内環境を整えることはボケ防止にも有効だそうですが、これはすなわち脳に良い影響を与えるからにほかなりません。
ヨーグルト以外には、食物繊維の多く含まれる食品が腸に良いことは良く知られています。

更に、食物関連でストレスと関係する食材を取り上げるなら、雑穀類を挙げなければいけません。
この雑穀類は非常に身体に負荷を与えない食材で、これを中心に摂取していると肉類中心の食事と比べて身体がウソのように楽になります。

人は栄養素を摂取する段階で、知らず知らずのうちに身体に負荷を与えています。全体の体調が良くなれば、ストレスにも耐えうる体質に近づく事が出来ることは言うまでもありません。
アワ、ヒエなど昔は捨てられて手に入らなかったものが、見直されて今は流通しています。これを一定期間、試してみては如何でしょう。

以上、ここまでは、メンタル面におけるストレスの分析を試みてきました。最後に、肉体的なものがストレス形成に影響を及ぼす場合について触れておきます。

フィジカルから来るストレス要因

メンタルとフィジカルは、車の両輪のように身体を構成しています。そのどちらかに大きな負荷がかかった場合、理想的な生活からは程遠いものになってしまいます。そのため、心のケア同様、身体のケアにも注意が必要です。

ここでは、特に日々の暮らしで酷使されているという点で目の疲れ。そして全身のケアにつながるものとして血行促進について取り上げたいと思います。

(眼の疲れ)

人が情報を得る時、その8割以上が視覚を使っています。それだけに目の疲労度は、他の器官とは比べ物にならないほど大きいのです。目の疲れから現われる症状は、重いものから軽いものまでありますが、大きくは、
「眼疲労」
「眼精疲労」
の二つに分けられます。

「眼疲労」はしばらく休むと痛みや疲労が治まるもので、比較的軽いものを指します。
これに対して「眼精疲労」とは、頑固な痛みなど継続的に症状が現われ、休憩の効果がありません。時には身体の他の部分に影響が出ることもあります。

肩こりから始まって、眼のかすみ、めまい、吐き気などの症状が一向に治まらない場合は、眼精疲労の領域に至ったと考えて、放置しないことが肝心です。
特に、頭痛や倦怠感のような症状が続く状態は、大きなストレスとなって生活自体に大きな影響が出てきます。また、ストレスが原因で眼に上記の症状が現われる場合もあり、眼とストレスには密接な関係があります。

眼精疲労に至らない眼疲労の段階ならば、上下左右、または円を描くような眼球運動によってかすみ目などが治る場合があります。また、遠くを見て、直ぐに手元を見ることを繰返し、毛様筋を収縮させることで疲れ目が改善されることもあります。

食事の面で眼のケアに役立つものとしては、ブルーベリー、ヤツメウナギが良く知られていますね。栄養素としてはビタミンが有効で、ビタミンA、ビタミンB、ビタミンC、Dが含まれた食品は、さまざまな眼病予防にも役立つので積極的に摂取したいものです。

血行促進

全身を巡る血流を良くする事は、育毛や肌のアンチエイジングを中心としてその重要性が良く説かれています。しかし、それ以上に、脳の活性化のために効果的であることを忘れてはいけません。
また、スムーズな血流は、内臓の諸器官を正常に働かせることにも繋がり、正に全身のケアに役立つことになります。

実際に血流を良くする方法は、各種のマッサージや体操、そして乾布摩擦などがありますが、根本的に身体全体の血行を良くすることを目指すべきでしょう。
それには先ず、身体を動かすこと。全身運動の水泳や強弱をつけたウォーキングは、心肺強化の面からも効果的です。
更に、もう一歩を進めて血行促進を考えてみると、体の左右のバランスを取ることが有効である事が判ります。

そもそも血液は、骨から作られますね。そのため、骨格の歪みを無くすことで健康な血液工場として骨格が機能する、という訳です。先ずは、背骨を中心とした正しい姿勢を心がけることから始めてください。

背骨は頚椎、胸椎、腰椎に分かれます。そして各部分は、首の所にある頚椎で其処から下を吊り下げている、という働きと、腰の所にある土台に当たる腰椎で上部を支えているという連動した仕組みになっています。
ですから、腰椎のゆがみは胸椎と頚椎のゆがみにつながり、頚椎のゆがみは胸椎と腰椎のゆがみにつながります。血液工場の中心である背骨は、同時にそこから内臓に延びる神経系統の中心にもなっています。その部分が歪んだ状態は、全身に大きな影響を与えて思わぬ疾病の原因にもなります。

自分でも出来る骨格矯正の方法として、先に挙げたウォーキングが効果的です。歩くという運動は、背骨の歪みを一番自然な形で治してくれるそうです。
その際、靴には注意してください。出来るだけクッションの効いたジョギングシューズが理想的です。間違ってもハイヒールで歩いてはいけません。逆に歪みを引き起こすことになるからです。

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